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  • 猫島の隣、どわめく波が打ち寄せる岬に、きりっと立つ濤波岐埼灯台

    猫島の隣、どわめく波が打ち寄せる岬に、きりっと立つ濤波岐埼灯台

     

      

    ナギヒコさんから寄稿していただいた記事です

     

    到達:2022年11月
    難易度:■■■□(中級)

    「ドワメキ埼」という変わった名前、島へ船で渡って行く、端正な形状。これだけ魅力的な要素を備えている灯台があったとは。

     ドワメキ埼灯台は、宮城県石巻市の網地島(あじしま)にある。網地島には、石巻(市街)、田代島、網地島、鮎川(牡鹿半島)を結ぶ定期船「網地島ライン」(1日3~5往復)で行く。

     

    (地図:国土地理院)

     

     猫好きな人なら知っている田代島は、人口より猫の数が多いという「猫島」だ。2つの島に行くのは時間が厳しいので、今回は残念ながらパス。さらに、網地島ラインの運行ダイヤがうまくあわないので、今回は鮎川から網地島の長渡(ふたわたし)港まで「海上タクシー」(モーターボート)を使った。

     鮎川港は、東日本大震災で大きな被害を受けたようで、現在は非常にきれいに整備されていた。

     

     

     この「海上タクシー」で網地島まで行く。

     

     

     中央が「猫島」田代島、左が網地島。

     

     

    網地島に上陸

     10分ぐらいと、わりと短時間で長渡港に着く。なぜこの漢字で「ふたわたし」と読むのか。ざっとネットを見た限りではわからなかった。

     

     

     連絡船待合所には、網地島(あじしま)の地図がある。左下が目指す灯台だ。

     

     

     このへんで灯台の名前を整理しておこうか。海上保安庁のサイトや、灯台の銘板では「濤波岐埼灯台」(どうみきさきとうだい、略字の「涛」も使われる)。

     一方、地名としては上の地図のように「ドワメキ」と呼ばれるのが一般的なようだ。漢字で書くと「渡波滅生」で、住所として「石巻市長渡港渡波滅生」というものが存在するようだ。おそらく発音から漢字を当てたのだと思う。

     そして「ドワメキ」とは、波が岸に打ち付けるときの音だと書いてある資料が多い。「打ち寄せる波がどわめく場所」、どんなにすごいところか、ちょっと見てみたくなる魅力的な名前ではないか。

     というわけで、灯台を目指し、集落の中の細い道を上っていく。

      

     

     上りきると、今度は反対側の海岸に向かって下っていく。

     

     

     すると、港から歩き出して初めての案内板があった。

     

     

     ここでの表記は「ドワメキ崎」。右の「ベーリング投錨地」は、ベーリング海峡などの名前のもととなった、ロシア人ヴィトゥス・ベーリングの探検隊が投錨したところだという。が、寄り道せずに直進。

     

     

     分かれ道、なぜかPTA(あのPTAだよね?)が「←涛波岐埼灯台」と教えてくれるので、そちらへ。と思ったら…

     

     

     右の道に猫発見。このあたりの家の住所は「渡波滅生」なんだろうな。この住所あての郵便を出したい。

     

     

     網地島で最初の猫だ。ゆっくり近づいたが、逃げられてしまった。ということで、灯台への道に戻る。

     

     

    いよいよ岬に迫る

     

     わだちがあるので間違いようはないと思うが、親切に案内板。ここでは「ドワメキ岬」だ。付近はヤマユリが生えているらしく、採取禁止の看板もある。

     

     

     道の先、木の間から空が見える。ということは…。

     

     

     いよいよか?

     

     

     見えた!

     

     

     やっと来たよ、ドワメキ埼灯台。

     

     

     中央がくびれているきりっとしたフォルムと、上部に開いた四角い穴がモダンでステキ。

     

     

     そしてちょっと珍しい赤白の塗色。このへんで積雪は少ないのでは(赤白や黒白の塗色は積雪時に認識しやすいために北海道で多い)、と思ったのだが、霧の発生時を考慮した結果らしい。

     

    さらに灯台の向こう側へ

     そして、灯台の右側からその向こう側に行くことができる。踏み固められ方を見ると、それなりの頻度でここを歩く人がいる、ということだろう。

     

     

     現れた風景がこれだ。この先はそと海。ずっと真南に下れば、小笠原諸島まで陸地はない。

     

     

     写真だと実感しにくいのだが、そこは本当に「岬の突端の断崖」だった。足を滑らせれば一巻の終わり。あと10mぐらい先に行けるようだが、行く勇気はなかった。

     この日は穏やかな天気だったが、荒れた天気のときはそれこそ激しい波が繰り返し打ち寄せているのだろう。「ドワメキ」の名前にふさわしいと納得できる風景だった。

     振り返って見上げれば、灯台の先端がわずかに見える。

     

     

     左手には金華山が見える。左端は牡鹿半島。

     

     

     岬の左側にはこんな岩場がある。地層がかなり切り立っていて、浸食された岩によって迫力のある風景になっている。この写真では見えないのだが、この岩場と岬の間は切れ込みがあって、陸地としてつながっていない。

     

     

     そのてっぺん近くに何かある。仏像だろうか。こちらには背を向け、牡鹿半島か金華山の方向を向いているようだ。

     

     

     灯台の真向かいには「海難供養塔」もある。そと海に面したこの海域での海難事故は昔から何度もあっただろう。この像も慰霊の意図で立てたのではないかと思う。それにしても、行くのですらかなり危険な場所だ。失われた人を思う気持ちの強さを感じる立像だった。

     足元には、土台からはがれ落ちた祠(ほこら)と思われるものもあった。風雨だけでこのようにはなりにくそうだ。地震で倒れたのか。この高さまで津波が来たとは思えないのだが。

     

     

     ではそろそろ引き上げよう。  港まで戻ったら、2匹目の猫に出会った。涙模様がカワイイ。

     

     

     近づいても逃げ去るわけではないが、微妙な間合いは保つ。

     

     

     帰りのボートが来た。

     

     

    おまけ:金華山灯台

     網地島と牡鹿半島を挟んで反対側(東側)には金華山(島の名前も金華山らしい)があり、その東南端の鮑荒崎(あわびあらさき)には金華山灯台がある。

     

    (地図:国土地理院)

     

     金華山灯台は、1876年(明治9年)初点灯、石造りの古い灯台だ。日本の灯台の父、リチャード・ブラントンが設計した(ブラントンは完成前にイギリスに帰国)。形としては禄剛埼灯台(石川県珠洲市、1983年(明治16年)初点灯)と似ている。

     せっかく牡鹿半島まで行くのであれば、金華山灯台もぜひ訪れたいところだ。でも…。

     

    SEKIUCHI (my own work), CC BY-SA 2.1 JP

     

     金華山は「奥州三霊場」のひとつで、参拝客は鮎川(または女川)から定期船または海上タクシーで行ける。ただ、金華山の港は、金華山灯台とは島のほぼ反対側にあるため、港から歩いていくしかない。

     行った人の情報によると、灯台までは片道2時間ぐらい。東日本大震災で崩れた場所もあるようだし、危険な崖があったりヒルに吸われたり、道のりはかなりきびしいようだ。

     上述の海上タクシーを使えば、海上から見ることはできる。海面から灯火までは高さ50mぐらいだから、そこそこ近いと言える。だけど、間近で見たときの存在感はやっぱり違うからなあ。

     ということで、残念ながらここは見送り。

     

     

  • 開放感バツグンなチゴキ埼灯台、あれは釣り人?

    開放感バツグンなチゴキ埼灯台、あれは釣り人?

     

      

    ナギヒコさんから寄稿していただいた記事です

     

    到達:2022年9月
    難易度:■□□□(入門)

     チゴキ埼灯台(秋田県八峰町)の魅力は、なんといっても開放感だ。平らな土地が広がっていて、その先は日本海。その周囲は定期的な草刈りもしているのではないか(結構広いのに)。

     

     

     しかもクルマなら真ん前まで行けるし、ぐるりと一周さえできる。どういうつもりでこのように舗装したのかはわからないが。

     国道101号からわりと近く、行くのには苦労がないし、「見にくる人」を想定した整備がおこなわれている。そのわりに観光客はほとんど来ないから、静かにこの開放感を味わえる。

     灯台を山側から見るととにかく“真四角”なのだが、灯籠の海側は半円形になっている。この「一部だけ曲線」はなかなか味がある。

     

     

     親切なことに、海を見るための展望場所も用意されている。

     

     

     ここから振り返ると。

     

     

     突端に近づいてみよう。岩場のずっと先(写真上下中央、左端近く)に人がいるぞ。

     

     

     釣りをしているのか?

     

     

     展望場所のすぐ下は波打ち際ではなく、少し平らな岩場になっている。そこから数十メートル高いところに、灯台のある平らな土地があるのだ。平地が階段状になっている、そう、それは海岸段丘(海成段丘)だ。

     北に見えるのは、秋田と青森の県境にある須郷岬のようだ。空の上下中央、右から3分の1ぐらいのところにゴミがある、と思ってよく見たら、どうも鳥のようだ。

      

     

     記憶にないのだが、トンビがピーヒョロロと鳴いていただろうか。そんな鳴き声が似合う、気持ちのいい場所だった。

     

      

     

  • 湯沸岬灯台が、ルパンと不二子の最初の出会いだった(かも)

    湯沸岬灯台が、ルパンと不二子の最初の出会いだった(かも)

     

     

     

     

    ナギヒコさんから寄稿していただいた記事です

        

    到達:2022年9月
    難易度:■□□□(入門)

     湯沸岬(とうぶつみさき)灯台(北海道浜中町)がある湯沸岬(とうふつみさき)は、「霧多布岬(きりたっぷみさき)」とも呼ばれ、この名前の方が知られているかもしれない。

     そして霧多布といえば、マンガ「ルパン三世」の作者(あるいはアニメ「ルパン三世」の原作者)モンキー・パンチの出身地だ。そして峰不二子の造形に寄与したとされるのが中学時代の同級生。とすれば、ルパンと不二子が最初に出会い、知り合い(仲間?)になったのも、湯沸岬灯台かもしれないではないか。

     

     

    駐車場から小さく姿が見える

    (以下では灯台名以外、「霧多布」で統一する)

     霧多布岬があるのは霧多布“半島”なのか霧多布“島”なのか。歴史的には砂州でつながったり離れたりしていたが、1960年チリ地震の津波で本土と切り離されたようだ(「北海道ファンマガジン」2016/10/26、https://hokkaidofan.com/kiritappu-island/)。現在は本土との間に狭い水路があり、本土からは橋を渡っていくしかない。

     

    湯沸岬

      

     

    「霧多布岬」の名の通り、霧が立ち込めることでも有名、というような書き方をしているWebページもあるが、霧多布はアイヌ語のキタプ(茅を刈るところ)に由来するという(Bojan International、https://www.bojan.net/2012/11/18.html)。

     橋を渡った先に少しにぎやかな街があり、ここに浜中町役場もある。JRの浜中駅周辺よりもこっちの方が“中心地”ということか。中心地や役場が半島(?)にある、というのはわりと珍しいかもしれない。

     その霧多布半島を縦断した東端にあるのが、湯沸岬灯台だ。近くにわりと広い駐車場があり、なかなか景色がいい。

     

     

     

     灯台はそこからすでに小さく見えている。

     

     

     

     

     到着。積雪時にも目立つための赤い塗色が鮮やかだ。

     

     

     

     近くにある落石岬灯台(北海道根室市)にちょっと似ている。四角い付属舎は合理的だが、見た目の味わいは少ない気がする。

     

     

     

     落石岬灯台についてはこちらを参照してほしい。 

     

     

    灯台よりさらに突端へ

     灯台よりもう少し先、岬の突端にまで行けるようになっている。

     

     

     

     

     突端まで来た。松浦武四郎(江戸時代から明治にかけての探検家でアイヌ民族研究家、「北海道」という名前の考案者)の歌碑がある。彼は蝦夷地の探査を何度も行っており、実際にこの地に立ってこの歌を詠んだのだろう。クルマですいすい来てしまって申し訳ない。

      

     

     

     

    景色と秘境感で霧多布岬を上回る涙岬

     このような、岬の突端の風景ということだと、灯台はないのだが霧多布岬よりもさらにお薦めの場所がある。霧多布岬から海岸沿いに20kmほど南東に行った涙岬だ。道道123号脇に駐車場があり、道道には案内板もある。

     駐車場から涙岬の突端までは約10分。

     

     

     

     両側の斜面が急だし、先がどうなっているのかが見えない。

     

      

     

     落ちたら終わりだ。

     

     

     

     ここが涙岬の突端だ。

     

     

     

     東方向。この先に厚岸があり、釧路がある。

     

     

     

     西方向。少し離れたところにあるのが「立岩」のようだ。

     

      

     

     漁師姿のルパンが説明する涙岬の由来。この付近で遭難した若者の名前を泣きながら呼び続けた娘がいた、という話。ここではもし岸に打ち上げられたとしても、崖を下りて助けに行くことはできないだろう。

     

     

     

     訪れる人はチラホラいるようだが、霧多布岬とは人の数が全然違う。涙岬の秘境感と景色のみごとさは霧多布岬を上回っていると思う。

     

     

  • 野付埼灯台の“地の果て”感は、吹き荒れる風でさらに強く

    野付埼灯台の“地の果て”感は、吹き荒れる風でさらに強く

     

     

     

     

    ナギヒコさんから寄稿していただいた記事です

        

    到達:2022年9月
    難易度:■■■□(中級)

     野付埼(のつけざき)灯台の周りには本当になにもない。一面に広がる草原(くさはら)があるだけだ。しかもそのときは強い風が吹き荒れていて、“地の果て”にひとりさみしく立っている姿がとてもけなげに見えた。

     そもそも、野付半島(根元部分は北海道標津町、先端部分は別海町)は不思議な場所だ。一般的なイメージの「半島」とは形が違ううえに、高いところがほとんどない。それは、野付半島が「砂嘴(さし)」だからだ。

     

    野付半島

      

     

     砂嘴とは、川から運ばれた砂や礫(れき)が、海に細長く堆積した地形のことで、三保の松原(静岡県静岡市)がその一例。野付半島は日本で一番大きな砂嘴なのだ。

     砂嘴は硬い岩でできているのではないので、1000年というような(地理的な観点では)わりと短い年月で形を変えやすい。野付半島ができたのは約3000年前だという。

     

     

     野付埼灯台は、そういう野付半島の東端にある。残念ながら「日本最東端の灯台」の地位は、根室半島の納沙布岬灯台(北海道根室市)に取られているが。

      

     

    道道の突端からは徒歩で

     か細い野付半島を縦断する唯一の道路である道道950号の突端にクルマをとめる(終点と言いたいがこっちが起点)。この先にもじゃり道があるが一般車は通行禁止になっている。

     

     

     

     

     灯台は200mぐらい先で、すでに見えている。灯台より先までずっと延びている電線と電柱は、大自然に対する人間のか弱い抵抗を表しているようだ。

      

     

     

     地名としては「野付埼」ではなく「竜神崎」だそうな。

     

     

     

     数分歩いて灯台に着く。

     

      

     

     周りには草しか見えない。標高が低いので、はるか眼下に波立つ海面を見る切り立った崖、というようなものもない。アクセスも比較的楽なので、「灯台クエスト」的な魅力度は少ないが、どこまでも平坦な土地なので仕方がない。

     

     

     

     写真ではわかりにくいのだが、この日は朝から強風が吹き荒れていて、歩くのにも苦労するほどだった。強い風のなか、じっと立つシンプルな形の灯台と小屋。このけなげな姿が、灯台の本来の役割を思い出させてくれる。

     このように“地の果て”を感じさせる野付半島からは想像がつかないが、江戸時代には人でにぎわっていたという。以下、河﨑秋子の小説「東陬遺事(とうすういじ)」から少し引用する。

     

     寛政11年、東蝦夷地を仮直轄地とした幕府はここ野付に通行屋を設け、蝦夷地本土とクナシリ島を往来する船舶を管理、把握するようになった。

     またここは鰊や鮭に恵まれた海域であり、漁場として、更には魚滓(うおかす)という江戸時代後期において重要な役割を占めた商品の生産地として賑わっていた。

    集英社文庫『鯨の岬』収録

     

       

     野付埼灯台よりずっと先、砂嘴の突端(方向としては西)には「野付通行屋跡遺跡」がある。野付半島には13世紀から18世紀のころのアイヌの遺跡もある。はるか昔、このような場所で暮らしていた人がいる、というのはちょっと心を打つ。

     

     

     

    地形が変わりやすい砂嘴の宿命

     風が強いので、半島の外側(北東方向)はかなり荒れている。

     

     

     

     一方、内側(南西方向)はこの風にもかかわらずあまり波が高くない。この穏やかで浅い海と湿地帯が、さまざまな動物と植物を抱える豊かな自然を生み出している。

     

     

     

     野付半島は年間平均1.5cmというけっこうな速さで地盤沈下しているそうだ。

     また、半島の一番細い部分は10mに満たないぐらいで、コンクリートの堤がなければ、砂が削られて島になってしまいそうだ。100年といった短い期間で姿が変わっていくのが砂嘴の運命だ。

     土地の変形によって、野付埼灯台もいつかは移動させなければならなくなるかもしれない。それとも、そのころには灯台というものが必要とされなくなっているのか?

     

      

  • 禄剛埼灯台だけになぜ「菊の御紋」があるのか

    禄剛埼灯台だけになぜ「菊の御紋」があるのか

     

     

     

     

    ナギヒコさんから寄稿していただいた記事です

     

    到達:2022年10月
    難易度:■□□□(入門)

     禄剛埼(ろっこうさき)灯台(石川県珠洲市)は、ぜひ行ってみたい灯台だった。

     禄剛埼灯台は能登半島の本当に突端にある。道の駅の駐車場から歩いて5分ぐらいで行けるという手軽さもあり、観光客が多い“メジャー”な灯台だ。

     そういう「灯台クエスト」の“対象外”であるような灯台に行ったのは、一番カッコイイと思っている立石岬灯台(福井県敦賀市)と似ていることのほかに、両者の間に歴史的な大きな境目があるからだ。

     

    Googleマップ 禄剛埼灯台

      

    急な上り坂の先に現れる

     “狼煙(のろし)”という、いかにも灯台がありそうな地名の道の駅にクルマをとめると、わかりやすい案内板がある。

     

     

     

    「400m、8分」は楽勝、という印象だがとんでもない。ものすごい急な上り坂なのだ。

     

     

     

     

     前半200mで高低差(20~30mぐらい?)を一気に消化すると、平坦な芝生が広がる。

     

     

     

     見えてきたぞ。

     

      

     

     想像していたより灯籠(光源やレンズがある灯台上部)が大きい! 広場部分より一段低いところに灯台があるというのは、珍しいかもしれない。

     

     

     

     これが正面。“付属舎”(塔の下部にある部屋のような部分)が半円形であるのも大きな特徴だ。

     

     

     

     

     禄剛埼灯台の初点灯は1983年(明治16年)7月。その一つ前に作られたのが、前述した立石岬灯台(初点灯は19881年7月)だ。どちらも石造りで塔がそれほど高くない。円形か半円形かの違いはあるが、付属舎の見た目はちょっと似ている(多くの灯台の付属舎は直方体)。

     

    立石岬灯台

     

     

     

    「日本人だけ」の最初の灯台か?

     だが、この2つの灯台の間には、歴史的な大きな境目があると考えている。それは「設計から建築までに外国人が関与したか、日本人だけでおこなったか」ということだ。

     明治になって日本は、レンズを使った明るい「西洋式」灯台を作り始めた。そのとき西洋の持つ技術を日本にもたらした立役者が、英国人技師のリチャード・ブラントンだ。ブラントンは1868年(慶應4年、明治元年)から1876年(明治9年)まで、後任のジェームス・マクリッチは1872年(明治5年)から1879年(明治12年)まで日本に滞在し、多くの灯台建設に携わった。

     そして、技術が日本人に伝承されるに従って外国人技師は次第に帰国し、1881年(明治14年)にはだれもいなくなった。ちょうど、立石岬灯台(1881年初点灯)と禄剛埼灯台(1883年初点灯)ができたころだ。

     立石岬灯台は「日本人だけで設計・建造された初の灯台」と言われたりするが、実はマクリッチも関与していたようだ、という話は次の記事で書いているのでそちらを参照してほしい。

     とすると、「日本人だけで設計・建造された初の灯台」は禄剛埼灯台なのではないか?

     珠洲市の観光サイトには「明治時代に日本人の設計で造られた白亜の灯台です。」とある。また、海上保安本部のWebページには「明治16年、建設はすべて日本人技術者の手で建設されました。」とある。

     なお「ブラントンの設計による」と書いているWebページ(主に観光系サイト)がいくつかあるが、その根拠は示していない。1876年に離日したブラントンが、1881年(完成の2年前)に工事が始まった禄剛埼灯台を直接設計したと考えるのは難しい。

     ただ、1870~1876年(明治3〜9年)に作られた石造灯台が、すべて円筒形の灯塔に半円形の付属舎が付いた形状であるため、「ブラントン型灯台」と呼ぶそうで、禄剛埼灯台も「ブラントン型」である、とは言える。

     立石岬灯台の次に建設され、「日本人だけで設計・建造された灯台」であるなら、禄剛埼灯台が「日本人だけで設計・建造された“初の”灯台」と考えてほぼ間違いないのではないか。

     

     

    「菊の御紋」の持つ意味は

     そして、その仮説を補強する材料が「菊の御紋」なのだ。案内板によれば、「日本で唯一菊の御紋章がある灯台」だという。それがこれだ。灯塔の中央付近(ほかの灯台では入口の上)に掛けられているもので、「銘板(記念額)」と呼ぶらしい。

     

     

     

     菊が円ではなくちょっとゆがんでいる。また、その下の白い図形がなにを表しているか、よくわからない。なので、実際に見たときに「これは菊の御紋だろうか」という疑問が湧いた。

     だが後日、「菊の御紋」がこれだけではないことが判明した。

     公益社団法人燈光会の会誌「燈光」の平成27年9月号、「明治の灯台の話(52) 禄剛埼灯台」という連載記事(著者は「灯台研究生」)に、「灯台の踊り場の支え金具に菊の模様が施されているのです」との記述があった。

    「燈光」の連載「明治の灯台の話」には、立石岬灯台のときにもたいへんお世話になった。貴重な資料である。

     

     写真を見返したらたしかに菊っぽい形があった!

     

     

     

     また、内部の天井にも菊の模様があるという(禄剛埼灯台は年に3回ぐらい内部が公開されるので、確認することはできるだろう)。

     そして、このような菊の模様が付いた灯台はほかにない。なぜ菊の御紋を付けたのか、なぜほかの灯台にはないのか、その経緯がわかる資料は残っていないそうだ。

     一方、立石岬灯台の銘板がこれだ。初点灯の年月日が英語と日本語の両方で書かれている。銘板に英語の年月日が刻まれているのは立石岬灯台が最後だ。

     

    立石岬銘板

      

     こう考えてはどうだろうか。禄剛埼灯台では、ついに外国人の手を借りずに作ることができた。諸外国に追いつくことに必死だった明治初期、「日本人だけで」できたということは大きな誇りを感じたことだろう。とすれば、日本の国を誇るシンボルとして菊の御紋を使い、さらに日本語だけで年月日を記述することにしたのではないか。

     前の方で2つの灯台の写真を並べたが、シロウト目には似ているように思う。しかも銘板の書体が、印鑑に使われるような変わった形でそっくりだ。

     考えてみれば、禄剛埼灯台を仮に日本人が設計したとしても、ブラントンやマクリッチの設計を受け継いでいることは間違いない。実際に手を動かしたのが日本人だけだった、という価値は大きい。だが、技術というのは常に連続して継承されていくものだ、ということを、この2つの“似た”灯台が表しているように思う。

     

     最後に前出の連載記事「明治の灯台の話(52) 禄剛埼灯台」の記述を引用しておこう。

     

     禄剛埼灯台の設計は外国人が関与していないことが強く考えられます。外国人技術者がすべて去った後ブラントン型灯台が復活した理由は、彼らの援助なしに日本人技術者だけで建設できる石造の洋式灯台は、彼らと最も多く携わったブラントン型灯台が1番だったからではないでしょうか。

    https://tokokai.org/kaishi/touko_2015-9.pdf

     

     

  • 旧福浦灯台に行こうとして3つのワナに惑わされた

    旧福浦灯台に行こうとして3つのワナに惑わされた

     

     

     

    ナギヒコさんから寄稿していただいた記事です

     

    到達:2022年10月
    難易度:■■□□(初級)

     地味な灯台に行くときは、やはり事前準備が大事。それを旧福浦灯台に行って実感した。

     今回、灯台に到達するまでにちょっと迷ってしまったのだが、要因は主に3つある。

    ・福浦港の形がややこしい
    ・旧福浦灯台と福浦灯台が別の場所にある
    ・旧福浦灯台と駐車場が少し離れている

      

    「ここだろう」と思ったところに灯台はなかった

     江戸時代から明治時代にかけて、北前船が寄港した能登半島の町、と言えば輪島が思い浮かぶと思うが、実は福浦(ふくら、石川県志賀町)もかなり発展した港だったようだ。そのとき、船を安全に港に入れるように誘導したのが旧福浦灯台だ。

     今回、旧福浦(きゅうふくら)灯台に行ったのは、近く(巌門という景勝地)にいて、しかも時間が少しあったので、「ちょっと寄ってみよう」とその場で思い立ったからだ。

     だが「ここだろう」と見当をつけてたどり着いたところに旧福浦灯台はなかった。小高い場所に祠があり、そこに登って見渡すと、眼下の海岸とその反対側に灯台の小型版のようなものが2つ立っていた。

     

    祠と福浦港導灯(前灯)(Googleマップ ストリートビュー)

     

     

    福浦港導灯(後灯)

     

     あとで調べたところ、この2つは「福浦港導灯(前灯)」「(後灯)」というものだった(1950年点灯)。導灯とは、低い前灯と高い後灯の2つが縦に並んで見えるように船を進めれば、安全に港に入れる、というものだ。知らなかった。

     ここは、次の地図上部の「福浦港導灯(前灯)」のマークがある場所だったのだ。

     

     

     

     地図をざっと見て「港の南側に行けばいい」と考えたのだが、福浦の入江は2つあって、北側の入江を“福浦港”だと勘違いしていたのが原因だった。

     ところが、Googleマップで現在地と「福浦灯台」をその場で調べるとさらにわけがわからなくなった。福浦灯台がすごく離れた場所に表示されているのはなぜ?

      

    旧福浦灯台とは別に福浦灯台がある

     やっと判明したのは、旧福浦灯台は福浦港を挟んで福浦港導灯の反対側にあり、福浦灯台はもっとずっと南(地図の左下)にある、ということだった。旧福浦灯台とは別に(新)福浦灯台が違う場所にある、ということを知らなかったのが敗因。

     だが、どの道を行くと旧福浦灯台にたどり着くかがまだはっきりしない。ネット記事などを調べて「少し離れたところに旧福浦灯台駐車場がある」ことがようやくわかった。カーナビの目的地は「旧福浦灯台駐車場」に設定するのが一番よさそうだな。

     旧福浦灯台を含む福浦港のあたりは日本遺産「北前船寄港地・船主集落」に含まれていて、ところどころに案内板もある。ただ、道路の目立つところにいくつもある、というわけではないから、それだけを頼りにするわけにはいかないだろう。

     要は「事前によく調べてから行け」ってことだ。

     

     

     

     駐車場から灯台までは500mぐらい、歩いて10分ほどだ。案内板を確認し、住宅街を抜けて海岸の方に向かう。

     海岸近くのつきあたりを右へ行くと旧福浦灯台、左へ行くと「腰巻地蔵」と「極楽坂」がある。実は腰巻地蔵のすぐ隣に(新)福浦灯台があるのだが、福浦灯台はどうも“観光するもの”とは捉えられていないようで、どこにも案内がない。もしあなたが福浦灯台に行く場合は「腰巻地蔵」の案内に従えばいい。

     2年後に、(新)福浦灯台に行ったときの話はこちら。

    https://soloppo.xsrv.jp/240909-lhquest-shinfukura/

     

     

     

     あと120m。このへんまで来るとやけに案内が親切だ。

     

     

     

     見えた。

     

     

     

     もう少し。

     

     

     

     到着。見晴らしがいい。写真右手奥が福浦港、左に見えるのはおそらく防波堤。サインのローマ字が「FUKURA」ではなく「FUKUURA」になっているな。

     

     

      

     なかなかりっぱなたたずまいだ。ただ、この形状は個人的にはあまりときめかない(なので当初来るつもりがなかった)。

      

     

     

     福浦港の付近は露出している岩が多く、灯台の必要性が高かったことをうかがわせる。

     

     

     

    「日本最古の(西洋式)木造灯台」は本当か

     旧福浦灯台のウリは「日本最古の(西洋式)木造灯台」。本当だろうか。

    「日本最古」「日本で最初」をうたう灯台はいろいろあるので、どういう種類の中でなのか、「現存する」とか「当初の場所に現存する」なのか、修飾語をよく確認しないといけない。さらに、案内板、パンフレット、ネット記事などはだいたいどこかからの引き写しで、根拠がはっきりしないことが多い。根拠となる資料がなにかも重要だ。

     というわけで、いくつかある福浦灯台の資料から、矛盾のないものを抜き出すと以下のようになる。

     

    1608年(慶長13年)福浦在住の船持ち日野長兵衛が、港の入口の岩頭でかがり火を焚く
    1690年前後(元禄年間)同じ場所に灯明堂を建設。日野家は代々灯明役を担う
    1876年(明治9年)日野吉三郎が灯明堂の形態を残した木造の灯明台を建設
    1905年(明治38年)日野家から管理を受け継いだ福浦村が灯台を再建
    1952年(昭和27年)別の場所に福浦灯台を建設し、旧福浦灯台の使用を終了
    1984年(昭和59年)福浦灯台を建て替え

     

     

    「日本最古の(西洋式)木造灯台」というのは、1876年の灯明台建設を指しているようだ。灯明堂や灯明台がどのようなものかがわからないが、現存するものとほぼ同じ形のものになったのが1876年、という解釈らしい。

     海上保安本部のWebページには、(新しい)福浦灯台の点灯開始を「1905年3月18日」としているものがあるが、これは1952年(昭和27年)にした方がいいのではないかと思う。

     ちなみに「日本最古の西洋式灯台」は、1869年(明治2年)に点灯した、レンガ造りの観音埼灯台(神奈川県横須賀市)だ。旧福浦灯台より早い。

     旧福浦灯台が「最古」と主張する根拠(文献など)は示されていないが、ほかに主張しているところはなさそうだ……と思ったら、あった。

     同じように「日本最古の(西洋式)木造灯台」をうたっているのが、旧堺燈台(大阪府堺市)。こちらの建設は1877年(明治10年)なので、旧福浦灯台の1年あとだ。

     堺市のWebページでは、「現地に現存する洋式木造燈台としては、わが国で最も古いものの一つとして」と書いてある。Wikipediaの記述は「現存する最古の木製洋式灯台のひとつとして、国の史跡に指定されている」。

     どちらも「のひとつ」とあるので、矛盾はない。ところがこの「のひとつ」を読み飛ばす人も多いようで、「明治10年建築のわが国最古の木造洋式燈台」「当初の場所に現存する日本最古の木造洋式燈台です」のような記述をしている(公式サイトの)Webページがいくつかある。

     参考になるのが、個人ブログ「旅のホームページ」にある「灯台用語集」のページだ。これによると古い木造灯台として次のものが挙げられている。

     

    今津灯台(兵庫県西宮市)1810年(文化7年)
    旧安乗埼灯台(旧三重県阿児町)1873年(明治6年)
    旧福浦灯台(旧石川県富来町)1876年(明治9年)
    旧堺灯台(大阪府堺市)1877年(明治10年)

     

     今津灯台は、現在も現役の航路標識として使われている民営の灯台で、「灯明台(和式灯台)」と呼ばれたりしている。今回、和式と洋式(西洋式)がどう違うかは踏み込まないでおく。2023年以降、港湾工事のため移築される予定のようだ。

     旧安乗埼(あのりさき)灯台は、1948年(昭和23年)に鉄筋コンクリート造りに建て替えられ、その後船の科学館(東京都品川区)に移築復元されている。

     とすると旧福浦灯台は「当初の場所に現存する、日本最古の西洋式木造灯台」である可能性が高い、と言えるだろう。理由はわからないが、別の場所に(新)福浦灯台が建てられたことで、地図上の紛らわしさを生んだ一方、「当初の場所に現存する日本最古」という称号を得ることができたのだ。

     

  • 苦労してたどり着いた猿山岬灯台、見込み違いが生んだ貴重な経験とスリル

    苦労してたどり着いた猿山岬灯台、見込み違いが生んだ貴重な経験とスリル

     

     

     

    ナギヒコさんから寄稿していただいた記事です

     

    到達:2022年10月
    難易度:■■■□(中級)

    「秘境にある猿山岬灯台」。クルマをとめてから徒歩で約15分で行けるので、「行くのが困難」というほどではない。しかし、今回(2022年10月11日)はたどり着くまでに結構苦労した。なぜそうなったのか?

     言い方を変えれば、貴重な経験であり、スリルがあって記憶に残るものになった。これが「灯台を見に行く」ことの楽しみの一つだ。

     猿山岬灯台(石川県輪島市)は「能登半島最後の秘境」と言われる場所にある。能登半島のほとんどは、海岸線に沿って国道249号または県道(次の図の赤オレンジ線および黄色線)が通っているが、猿山岬を含む北西部だけは海岸沿いの道がないことからも「秘境」であることが想像できる。

     

    OpenStreetMap(https://www.openstreetmap.org/copyright

     

     第九管区海上保安本部のWebページによれば、

     

    最近まで人一人が歩けるだけの山道が通じているだけでしたが、今は道路が整備され、訪れる人も多くなっています。

    https://www.kaiho.mlit.go.jp/09kanku/koutsubu/toudai/kakutoudai/saruyamamisaki.htm

    とある。

     

     猿山岬灯台の付近には雪割草の群生地があり、おそらくこのために(いつごろかが不明だが)道が整備され、大きな駐車場も作られている。したがって、以前よりも猿山岬灯台には行きやすくなっているのは確かだ。

     

    (Googleマップ)

     

     このGoogleマップを見て、「同じ道を引き返すのはつまらないので、行き帰りで別の道を通ろう」と考え、猿山岬駐車場には南側から向かうことにした。そして、これが間違いだった。

     国道249号(図下部の黄色線)を西側の海岸に向かい、そこから県道266号に右折する。はじめ海岸沿いだった道は、急峻な崖に阻まれて途中から内陸に入る。そして、かなりのつづら折りを経て、猿山岬駐車場に向かう脇道に入る。こういう目論見だった。

     カーナビには猿山岬灯台の登録がなく、大まかな地図の位置を指定して目的地にしたところ、北側から回るルートを指示した。あまり頼りにならないので、カーナビを見るのはやめて、事前に見ていたGoogleマップの記憶を頼りに進むことにした。

     

     

     

     門前町深見(地図の左下)で海岸線を離れたあと、上図A地点からは本格的な山道だ。青の標識のうち、上の「猿山灯台」の文字は消えかかっている。下の「六郎木」は少し先の集落。その下に「猿山岬灯台 雪割草群生地」という看板もある。ここまでは順調。

     

     

     途中、3、4軒の建物が見えたのが「六郎木」集落だろう。

     そこを過ぎると、クルマ1台分の道幅しかなくなり、道の両側は草や木が生い茂っている。対向車が来てもすれ違える場所がほとんどない。テレビ番組「ポツンと一軒家」でよく見る光景だ。

     ゆっくりと走って「いつまでこれが続くんだろう」と思うころに分岐(地図のC地点)にたどり着く。猿山岬灯台の標識があるので左に進む。

     通常はスマホのGPSをオフにしているので、Googleマップを開いても現在地が表示されない。設定を変える方法をゆっくり調べる気持ちの余裕がなかったので、現在地がよくわからない。実は、事前に見ていたGoogleマップの記憶から、この分岐(地図のC地点)が地図のD地点だろうと勘違いしていたのだ。

     ここからがアドベンチャーのハイライトだ。カーブの先は草で見えないので、対向車が直前に来るまで確認できない。路面には枯草や枯木が一面に落ちていたりして、あまりクルマが通らないことを示しているが、来ない保証はない。緊張を強いられながら時速20kmぐらいの低速で進む。雪割草シーズンに多くのクルマが行き来してだいじょうぶなのか?

     D地点であれば、ほどなく駐車場が現れるはずだ。ところがこの道がいつまで経っても終わらない。実際にはC地点からD地点に向かって走っていたからだ。「次のカーブの先が駐車場ではないか」という期待が何度も外れ、同じような道が現れる。Googleマップにはない、間違った道を来てしまったのではないか、という不安を抱えながら延々と走っていたのだ。

     このような状況だったので、道路の写真を撮ることに気が回らず、この区間の写真はない。代わりにGoogleストリートビューの画像を入れておこう。

     

    (Googleマップ ストリートビュー)

     

     C地点から15分ぐらい走っただろうか。ようやく少し広い道に突き当たった。これがD地点だったのだ。そこから5分ぐらい走って、ようやく駐車場にたどり着いた(地図の「猿山岬駐車場」というマーカー位置)。2カ所の駐車場に40~50台ぐらいがとめられそうで、雪割草の季節(2月から4月)はここもいっぱいになるのかもしれない。だがきょうは1台もいない。

     

     

     クルマをとめ、この先は徒歩で進む。

     

     

     すぐに舗装は終わる(地図のE地点)。「娑婆捨」(この先に行くなら世間の記憶は捨てよ?)という威嚇的な名前が付いていて、トイレと休憩所がある。

     

     

     トイレを過ぎて始まる遊歩道はこんな感じの道だ。

     

     

      

     

     崖の下は日本海。

      

     

     アクセスの悪い灯台へ行く醍醐味は、木々の間から灯台の姿が見えた瞬間だ。だいたいアプローチの道は木や草で見通しが悪いので、だいぶ近づいてからようやく灯台の姿が見えるのだ。

     猿山岬灯台の残念なところがここだ。灯台まであと100m以上ありそうな地点で、チラッと灯台の先端部分が見えてしまうのだ。写真だとわかりにくいが、中央付近に灯台の先端部分が見えている。

     

     

     アプローチの最後は急な階段だ。

     

     

     

     そして灯台が見えてくる。ここまでの苦労が報われる瞬間だ。

     

     

     とうとう猿山岬灯台が全体の姿を現した。これ以上上ると、写真のフレームに灯台全体が入らなくなる。右にある塔は、上部で細長い棒状のものが回転していて、レーダーっぽいものと思われる。灯台の古い写真を見ると(例えばhttps://lighthouse-japan.com/ishikawa/saruyamamisaki/saruyamamisaki.html)、この右の塔が写っていないように見えるので、近年建てられたのかもしれない。

     

     

     

     そして到着。猿山岬灯台は点灯が大正9年(1920年、改築昭和59年)とかなり古い。前述したように猿山付近は人が近づくのが難しく、当時はアクセス道路がなかったため、建設には相当の苦労があったようだ。

     

    資材は灯台直下の崖下に船を着け、海抜約200メートルの建設地まで、垂直に近い急斜面を人力で這うようにして担ぎ上げられ、工事は難航を極め、大正9年11月に点灯しました。

    https://www.kaiho.mlit.go.jp/09kanku/koutsubu/toudai/kakutoudai/saruyamamisaki.htm

     

     これを考えると、今回アクセスに要した苦労はたいしたものではないと思えてくる。

     

     

     

     

     駐車場からの歩きは約500m、10~15分ぐらいだろうか。距離はそれほどないが、上り下りがあるので歩くのは結構つらい。

     この先も遊歩道は続き、門前町深見まで続いている。案内板によれば深見まで3.4km、歩いて1時間半。さっき不安を抱えながら走った自動車道と並行した形で山中を歩き、門前町深見の中心地付近に出る。

     

     

     

     では駐車場に戻り、次の灯台(禄剛埼灯台)に向かおう。駐車場から地図のD地点まで戻ると、道は自然とその先に続いている。さっき南から来た道には間違っても曲がりそうにない。道は両側1車線から2車線ぐらいの幅で、走るにはなんの心配もない感じだ。小崎という小さな半島を回ると、門前町鵜山というちょっとした集落に出る。

     

     

     なんのことはない、こっちからアプローチしていれば、そんなに迷わずに猿山岬駐車場まで行けるのだった。

     ここでもう一度最初の地図を載せる。

     

     

     これを見ると、北側(上端)の門前町鵜山から南側(下端)の門前町深見までそこそこ太い道(白線)があるように感じてしまうではないか。Googleマップに文句を言っても仕方がないのだが。

     そしてもう一つ。地図をよく見ないと気づかないのだが、国道249号から南側の門前町深見に向かう道路は県道265号。一方、北側の門前町鵜山付近の道路は県道266号。県道としてはつながっていないのだ。猿山岬付近を通過して南北に行き来する人(クルマ)は、確かにそれほどいないだろうな、と想像できる。

     そう考えると、今回は貴重な道を走破する経験をしたことになる。しかもちょっとしたスリルも味わえた。