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  • 2025年は鯛島上陸のラストチャンス!陸奥弁天島灯台(鯛島)についに到達

     

    ナギヒコさんから寄稿していただいた記事です

    到達:2025年7月
    難易度:■■□□(初級)

    ようやく鯛島(弁天島)に上陸し、陸奥弁天島灯台(むつべんてんじまとうだい、青森県むつ市)の前に立つことができた。感慨深い。

    しかも灯台を取り巻く風景がすばらしい。これまで行った中で1、2を争う。

    この島には今年(2025年)10月以降、来ることができない。“ラストチャンス”だったのだ。

     

    鯛島は長辺200m×短編100m弱のごく小さな無人島だ。このような島に、定期的に運航されている船で行って上陸できるのは、全国でも珍しいだろう。もちろん船をチャーターすれば行ける島ならあるが。

    陸奥弁天島灯台は、青森県下北半島の南西部、脇野沢港の近くにある。津軽海峡から来た船が、陸奥湾の東側、大湊(むつ市)や野辺地(のへじ)に向かう際の入口にある。入口を挟んで反対側の夏泊半島(平内町)には陸奥大島灯台がある。

    (国土地理院)

    鯛島には脇野沢港から観光船「夢の平成号」の貝崎周遊・鯛島上陸コースで行く。

    (国土地理院)

    「夢の平成号」は1989年(平成元年)の「ふるさと創生1億円事業」によるものだそうだ(当時の脇野沢村の事業)。貝崎周遊・鯛島上陸コース(7月から10月)のほか、仏ヶ浦コース(4月から10月)、イルカウォッチングコース(4月から6月)がある。

    実は、2年前の2023年に一度乗ろうとしたのだが、「波が荒いので欠航」となってしまったのだ。仕方ないので、陸地からと、脇野沢-蟹田のフェリーから撮影し、ひとまず「行った灯台」にカウントした。

    https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/76956?page=3

    「もう一度挑戦しようか」とも思うのだが、日帰りでは行くことができないのでそのままにしていた。

    ところが。

    今年7月になって「夢の平成号、今季で運航終了」というニュースを偶然発見。安全対策強化の必要があることや、利用者の減少などの理由で、今シーズン限りで運航を終わらせるという。つまり、鯛島に上陸する方法がなくなる、ということだ。

    ということであわてて出かけた。

     

    観光船が出航する脇野沢港からは、南方向に小さく鯛島が見える。

    鯛島は見る方向によって大きく表情が違う。北から見る鯛島は、一番さかなっぽい。

    灯台の下に目のような穴があるし、口っぽい形もある。「鯨に見える」という意見も多いのだが、尾びれが立っているのは哺乳類ではなく魚類なので、「鯛島」となったようだ。

    もう少し右に回ると、尾びれと思っていた部分(立岩という名前が付いている)が結構離れていることがわかる。

    そして尾びれを回り込み反対側へ。灯台へ向かう道や、横腹に開いたへこみなど、陸側からは見えなかったものが姿を現した。

     

    船は、灯台の真下にあるコンクリート桟橋に接岸する。

    桟橋からは、しっかりした歩道が延びている。

    ここが、鯛島の頂上、つまり灯台へののぼり口だ。想像していたよりすごく立派な工事が行われているのがオドロキだ。夢の平成号の鯛島上陸コース開始に合わせて整備したんだろうか。

    もう一つのオドロキは、鳥のフンの多さだ。島に近づいたころから気がついていたのだが、鯛島にはかなりの数のウミネコがいる。

     

    避けようがないフンを踏みながら階段をのぼっていくと、弁天さまの鳥居とやしろ、そして灯台が並んで現れた。

    階段の中央付近にある黒っぽいものは、ウミネコのヒナの死骸だ。大量のフンと羽毛のほかに、死骸もずいぶんある。ほかの鳥に襲われたのか、別の理由で死んだのかはわからない。

    鯛島上陸コースが7月下旬から始まるのには理由がある。下北ジオパークのFacebookによると、ウミネコのヒナが巣立つのを待っているのだ。ウミネコとさほど大きさは変わらないが、羽色が違う鳥がいるのは、ヒナなんだな。

    道の途中にあるのは退息所(官舎)の跡かなと思っていたが、弁天さまだったんだね。

    そのやしろの横を通れば…。

    灯台が全容を現す。非常にオーソドックスな姿だ。

     

    挑戦2回目で、ついに陸奥弁天島灯台に到達できた。うれしい。ウミネコも歓迎してくれている(?)。

    灯台を取り巻く景色、灯台から眺める景色、どちらも解放感があってすばらしい。これまで100以上の灯台に到達したが、その中の1、2を争うものだと思う。

    初点灯は1945年(昭和20年)1月。戦時中になぜ?と思うが、陸奥湾の奥、大湊に軍港があった(現在も海上自衛隊の基地がある)ことが関係していると思う。

    「灯台をぐるりと一周するだけだよ」という柵は、鯛島上陸コースと一緒に作られたんだろうな。

    このため、反対側に回っても灯台の姿は撮影しにくい。仕方ないのでその先の風景(脇野沢港付近)を撮る。正面にウミネコの成鳥、右にヒナが写っている。

    灯台を一周するともう行くところがない。四方に広がった、おだやかな陸奥湾の風景をしばらく味わったら、戻ることにしよう。

     

    鯛の尾びれにあたる立岩にも歩道がつながっているので、そっちにも行ってみよう。

    全体に丸みがある鯛島とは対照的に、岩肌の荒々しさが目立つ。岩の中央付近に四角い穴が開いている。自然にできたものではないよね?

    近くまで行ったら、階段があることが判明。観光客向けの整備がすごくないか?

    階段をのぼって穴の前に立つと、鯛島の全景が目に入る。これはすばらしい。灯台のために鯛島がある、と言ってもいい。

     

    そして穴をくぐり、鯛島とは反対側に出ると、遠くに陸地が見える。青森湾と野辺地湾の間にある夏泊半島ではないかと思う。

    そうであれば、中央に少し濃く見えるのが大島だ。画像を拡大してみると、陸奥大島灯台らしき白い点があるように思える。陸奥弁天島灯台と陸奥大島灯台の距離は約12.5km。気象条件次第では、もう少しはっきり見えるかもしれない。

    陸奥大島灯台についてはこちら。

    https://soloppo.xsrv.jp/230914-lhquest-mutsuooshima/
    (国土地理院)

    一方、西に目を向けると、もう少し高い山なみが見える。津軽半島だ。

    手前の陸地の先端と重なるような位置に平舘灯台(たいらだてとうだい、青森県外ヶ浜町)があるはずだが、肉眼でも拡大画像でもさすがにわからない。距離は16km弱だから、見える可能性はあると思うのだが。

    平舘灯台についてはこちら。

    https://soloppo.xsrv.jp/230918-lhquest-mutsuwan4/

     

    鯛島に戻り、船着き場の反対側から灯台を見る。こちらからの眺めもさまになっているな。

    30分が経った。そろそろ船が出る。

    とても充実した上陸体験だった。今年10月以降、この体験ができなくなるのは残念だ。夢の平成号と、関係するみなさん、長らくありがとう。

    このあと、鯛島はウミネコだけの楽園になる。

     

  • 石手川公園駅

     
    伊予鉄道横河原線は、松山市駅と横河原駅を結ぶ東西に延びた全長13.2kmの路線だ。全通したのは1899年(明治32年)と古いが、石手川公園駅が開業したのは1972年(昭和47年)で路線が電化された後にできた比較的新しい駅である。
    駅の一部となっている石手川橋梁は、移設されていない橋としては、現役で稼働している国内で最古のトラス橋だ。

     

    基本情報

    □路線  伊予鉄道 横河原線
    □開業  1972年(昭和47年)開業
    □所在地 愛媛県松山市立花4丁目
    □マップ

    □訪問年月 2024年

      

     

    北側からの駅ホームの遠景。画面右手側に石手川が流れている

       

    ホームの一部となっている石手川橋梁。橋長35.8mのポニープラットトラス(上流左岸から撮影)

      

    1面1線の無人駅だ

     

    画面右端にはタッチ式の簡易改札がある

     

    改札に続く、長いアプローチ

     

    石手川橋梁とホームが合体し、橋の横に歩道橋がつくられている

      

    横河原線開通当時に架設された石手川橋梁。100年をゆうに超えて、今も現役である

      

     

      

  • 花巻から遠野へ 釜石線を支える2つの橋 ~宮守川橋梁と達曽部川橋梁~

     

     

    東日本を南北に貫く東北本線。その東北本線の花巻から太平洋側の釜石まで、東西を結ぶのが釜石線だ。すべての駅が岩手県内にある釜石線には、路線の難所「仙人峠」がある。土地の高低差を克服するためのオメガループが鉄道ファンには有名だが、実はもう一つ、あまり知られていない高低差の難所がある。

    それが、花巻から遠野盆地に向かう峠越えだ。この峠越えを支えるのが、宮守川橋梁(冒頭の画像)と達曽部川橋梁、2つの橋である。  

      

    ★:2つの橋がある場所   国土地理院地図から作図

     

     

    2つの橋はともに土木学会選奨の土木遺産に認定されているが、特に観光客向けに整備されているのは宮守川橋梁のほうだ。

       

    看板の右手奥に見えるコンクリートアーチが宮守川橋梁

     

    遠野市の遠野遺産への認定、恋人の聖地プロジェクト指定など、歴史ある橋梁の雰囲気を尊重しつつ観光地としての整備もなされている。

     

    遠野遺産に認定

     

    地域の活性化支援としてNPO法人地域活性化支援センター主催のプロジェクト。この椅子に座るのは少し勇気がいりそうだ

     

    20mの間隔で5連のアーチが並ぶRCアーチ橋。全体の長さは107.3m、高さは20.6mある。

     

    向かって左方向が花巻、右方向が釜石

     

    橋に近寄って見上げると、線路の枕木の一部が確認できる。

     

      

    国有化される以前の岩手軽便鉄道が、この地域の路線を開通したのが1915年(大正4年)頃。その際に架けられていた鉄道橋の橋脚と橋台の一部が、今も現存している(次写真の赤矢印)。

     

     

    1936年(昭和11年)に国有化された後、1943年(昭和18年)に橋は改修され、旧橋に隣接して新しい橋が架けられた。これが現在の宮守川橋梁である。 

     

    橋の下には、宮守川が流れている。魚道が設けられているところからも、自然豊かな生態系が維持されていることがわかる。 

     

    画面中央右側に見えるのが魚道

      

    橋脚の陰で、ニホンカモシカらしき動物がじっとこちらをみていた

     

    宮守川橋梁から北西に約2kmほど離れた場所には、達曽部川(たっそべがわ)橋梁がある。

    写真では全体像がわからないが、支間19.2m×4連と9.8m×2連、全長98.5mのアーチ橋である。

     

    正面方向が釜石

     

    興味深いのは、宮守川橋梁が隣接して新しい橋が架設されたのに対し、達曽部川橋梁は、岩手軽便鉄道時代のプレートガーダー(桁橋)を内包する形でRCアーチ橋に作り直したことだ。

    宮守川橋梁と同じく作り直したのが昭和18年という時代を考えれば、こちらは宮守川橋梁のように新しく架設する余力がなかったということなのだろうか。

     

    釜石線では観光列車として、2014年から2023年まで「SL銀河」が運行されていた。宮守川橋梁を走行するSLは、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原風景とも言われているこの路線を象徴する姿となって、今も人々の記憶に残っている。

    ちなみに、宮守川橋梁を走行する画像ではないが、運行終了の前年(2022年)に遠野駅で撮影したSL銀河の写真を掲載して、この記事の〆としたい。

     

    遠野駅跨線橋より撮影

     

    遠野駅ホームより撮影

     

     

     

  • 「ねじりまんぽ」3選 琵琶湖疎水・眼鏡橋(三国港)・甲大門西橋梁

     

     

     

    「ねじりまんぽ」という言葉を初めて聞いたとき、なんだかわからないけど面白い言葉の響きだなと思った。「まんぽ」は古い時代の方言で、トンネルを表す言葉だという。

    明治から大正にかけてあらたな鉄道が次々と敷設されていった時代、ねじりまんぽの多くは鉄道路線を支える堅牢なアーチ橋として造られていった。レンガを斜めに積み上げる工法で強度を高め、線路や道などが斜めに交差する場所に採用されたのだ。

    コンクリートが広く使われるようになると、レンガ造りのねじりまんぽの時代は終わりを告げたが、数は少ないながら現存しているものがある。

     

    アーチの上部がねじれている

     

    今回は、京都・岐阜・福井にある3本のねじりまんぽを紹介していこう。

     

    琵琶湖疎水 ~蹴上インクライン~

     

    おそらく最も有名なものは、琵琶湖疎水にあるねじりまんぽだろう。

    琵琶湖の水を京都に運ぶ水路を建設することで上水道や農業用水を確保し、水力利用による産業の活性化を狙いとしたのが琵琶湖疎水だ。京都市の蹴上(けあげ)付近には、蹴上インクラインと呼ばれる台車に乗せた船を通すための傾斜鉄道が作られた。

     

     

    上の案内板の文章を読むと、線路の下をくぐるトンネルを、強度を高めるためにあえて斜めに掘ってねじりまんぽとしたようにも受け取れる。

    次の画像は蹴上駅(地下鉄東西線)の北、三条通側(西側)からねじりまんぽを撮影したものだ。100年以上経っても、当時の華やかさを残し、なおかつ、堅牢さをあわせもつ堂々とした風格がある。

     

     

    琵琶湖疎水らしく、ねじりまんぽのアーチ上部には扁額(へんがく)も設置されている。

     

    「雄観奇想」見事なながめとすぐれた考えであるという意

     

    明るい外からトンネル内に入ると、斜めの天井部と相まって、かるく目が回るような不思議な感覚になる。

     

     

    トンネル内の下部は、水平にレンガが積まれている。連続したニッチも意匠として美しい。(トンネルのニッチといえば、一般的には非常用の退避空間を指す。でもここでは「ニッチ」と呼ぶのがしっくりくる感じ)

     

     

    ねじりまんぽの東側は西側よりもだいぶ傷みが進んでいる様子。扁額も判別できない(2020年撮影時)。

     

     

    ねじりまんぽの上には、インクラインのレールが今も残っている。春になれば線路脇の桜が咲き誇り、一大観光名所になっている。

     

     

     

    甲大門西橋梁 ~東海道本線~

     

    2本目のねじりまんぽは、樽見鉄道の東大垣駅(岐阜県大垣市)の少し東にある。完成したのは琵琶湖疎水とほぼ同時期の1887年(明治20年)。甲大門西橋梁はいまも東海道本線の下を歩行者が通る現役のトンネルだ。

    (甲大門西拱渠と呼ばれることも。拱渠(きょうきょ・こうきょ)とはレンガのアーチ橋のこと)

    付近の地図をみると、東海道本線と交差する道はもともと斜めに位置していたように見える。斜めにせざるを得なかったねじりまんぽなのだろう。

    交差する斜め具合が少し大きいためか、坑口(トンネル出入口)の4重アーチに段差ができている。下の画像では左側が顕著だ。

     

     

    琵琶湖疎水と同じく、車は通れない狭さ。秘密基地の入り口のようだ。

     

     

    ちなみに、甲大門西橋梁の西にもレンガトンネルがある。おそらく同時期に造られたものだが、こちらは線路と直角に交差しているので、ねじれてはいない。

     

    乙大門橋梁

     

      

     

    眼鏡橋 ~えちぜん鉄道三国芦原線~

     

    東尋坊が近くにある三国港はえちぜん鉄道三国芦原線の終着駅だ。開業したのは1914年(大正3年)で官設鉄道の貨物駅としてだった。

     

     

    3本目のねじりまんぽは、駅ホームの東端から眺めることができる。

     

    ホームにある案内石

     

    これまでの2本と逆で、ねじりまんぽの中を列車が通っていく。地図をみたほうがわかりやすいのだが、交差具合はなかなかの鋭角だ。

     

     

    拡大した

     

    近くで撮影できなかったので、列車の中から動画を撮影した。トンネルを通過するのはあっという間なのでねじれ具合は目視できなかったが、坑口のレンガのずれ方をみれば、かなり角度がついていることがわかる。

     

     

    動画は22秒ほど。トンネル通過時はスロー再生で編集している

     

    現役のねじりまんぽは、西日本にまだいくつもある。できれば全部訪ね歩きたいが、なかなか難しい。

    日本だけじゃなくて、外国にもねじりまんぽがある。また別の機会に、世界のねじりまんぽを紹介したい。 

     

  • 支笏湖、山線鉄橋の謎を解け 鉄道技師ポーナルのレガシー

     

     

    北海道千歳市にある支笏湖(しこつこ)は、周囲約40kmのカルデラ湖だ。最深部363mと深さがあるため、湛える水量は多く琵琶湖に次いで第2位だという。

    以前から支笏湖に行ってみたいと思っていた。美しい支笏湖ブルーを見たいというのもあるが、そこに明治時代に建造されたピン結合トラス橋が現存しているからだ。その名を、「山線鉄橋」という。

    友人の編集者が支笏湖を探訪してきたというので、現地の様子や撮影した写真を見せてもらった。

    (本稿内の山線鉄橋の写真はすべて、フリー編集者の渡辺弥侑さんおよびそのご家族が撮影されたものです)

     

    右手が支笏湖。左岸上流側から撮影した山線鉄橋

     

    支笏湖は札幌の南約30kmのところにある。千歳川は支笏湖から流出する河川で、湖の東端に位置している。山線鉄橋は、千歳川の最上流部、湖岸ぎりぎりのところに設置されている。

     

     

     

    山線鉄橋はイギリス製で1898年(明治31年)頃に製造されている。125年以上経っていることを感じさせず、人道橋として利用するになんの問題もないように思える。

    古い時代に製造された橋によくみられる、レーシングバー(折れ線状に部材を連結したバー)が橋の上部と側面に並ぶ様は壮観だ。

      

     

     

    今の時代では採用されることのない、複数の部材をピンで束ねたピン結合も大きな特徴の一つだが、現存するものはわずかだ。

     

      

     

    山線鉄橋は、イギリス人の技師チャールズ・ポーナルが設計した200フィートのトラス橋で、ダブルワーレントラスという形式が採用されている。ダブルワーレントラスというのは、斜めの部材がX字に交差して格子状になっているものだ。

     

    山線鉄橋の側面には、交差したXが10個ある

     

    ではここで、次の写真をみていだきたい。交差部材の一方がレーシングバーではなく、ただの板状の部材となっている。1か所だけではなく何か所かあったようで、山線鉄橋の写真を撮影した友人が、「不思議に思った」と伝えてくれた。

     

     

    その話を聞いたときは、修復などで部材を新しいものに差し替えたのでは?と思った。

     

    古い錬鉄や鋼の橋は当然劣化が進んでいる。一部を差し替えて補修するといったことは現実にあるし、完全に解体してコンパクトサイズに組み替えて作り直す・・などということもある。

    山線鉄橋の状況を調べてみると、1995年(平成7年)から大がかりな修復が行われたようなので、深く考えもせずに改修されたのだと感じたのだ。

    しかし、念のために・・と山線鉄橋の歴史を少し深掘して調べてみると、そうではないことがわかってきた。結論からいうと、改修はされていなかった。いや、一部補修はされているのだが、この場所ではなかったのだ。

    どういうことか。けっこう間抜けな話(わたしが)なのだが、ちょっと事の次第をお付き合いいただきたい。

     

    まずは、山線鉄橋の歴史だ。ごくごく簡単に時系列にしたものが次表である。

    山線鉄橋の歴史

     

    山線鉄橋はもともと別の場所にあった橋を移設したものだ。時は明治32年、当時の北海道官設鉄道が上川線(旭川から砂川まで)を開業した際に、空知川に架設された(下図の赤マーク)。 最初の橋名は、「第一空知川橋梁」だった。

    その後、輸送量が増大していくにつれ橋にかかる荷重も大きくなり、イギリス製のトラス橋では対応できなくなっていく。そのため、橋を架け替えることになり、トラス橋は1924年(大正13年)に王子製紙に払い下げられることになった。

     

     

    王子製紙では工場の建設資材の運搬や、製紙原料となる原木の輸送などの需要で、専用線である王子軽便鉄道を敷設しており、払い下げられたトラス橋はその路線に移設されることになった。これが山線鉄橋のはじまりである。

    山線鉄橋を移設する前には木造のトラス橋があった。丸駒温泉が開湯したり、王子軽便鉄道が一般客の乗車を開始したりなど、こちらも輸送量の増加を考えての橋の架け替えだったのだろう。

     

    少し話が戻るが、山線鉄橋は第一空知川橋梁時代に、川の中にトラス部分が落橋するという事故があった。大正5年に起きた暴風雨により空知川が増水し、トラス橋の片側が川の中に落ちてしまったのだ。当時の落橋している古い写真はあるのだが著作権上掲載できないので、次の写真をご覧いただきたい。

     

     

    2019年(令和元年)の台風19号により甚大な被害を受けた千曲川橋梁(上田電鉄別所線)を撮影したものだが、トラス橋の片側が落橋し斜めに傾いてしまっている。これと類似の状況が第一空知川橋梁にも起こったのだ。

    復旧に向けて、いくつかの案が検討されたようだが、橋を補修しわずか数か月で設置しなおしたというのは驚きだ。
    この事実を知ったとき、このときの補修でレーシングバーなどの斜材を交換したのでは!と考えたのだが、そうではなかった。

    大正6年2月(1917年)に発行された土木学会誌に、当時の詳しい状況が報告された資料があった。

     

    「北海道線第一空知川橋梁災害応急工事概況」大村卓一氏
    土木学会誌 第三巻 第一号 に掲載

     

    古い資料であり、なおかつ専門的な内容なので正確には内容を把握できないが、他の資料とあわせて判断すると、上図の赤丸部分が現在も補修跡として確認できる。次画像の黄丸で囲んだ部分がその場所で、なんだか金属のバンドエイドのようにも見える。

     

    左岸より撮影

     

    つまり、最初の疑問だったレーシングバーの交差が異なる状況は、なんらかの改修ではなかったと思われるのだ。

    そうなると、考えられるのは一つ。最初からそういうデザイン設計だったのでは・・ということだ。

     

    ポーナルは多くの橋梁を設計したが、200フィートのダブルワーレントラスが今も残っているのは4基だ。(実は台湾にも1基あるのだが、それはまた別の機会に)

    それらは、以下のような構造となっている。

     

    緑:アイバー 青:レーシングバー

     

    上図の緑色の二重線は、どうやらアイバーと呼ばれる部材で、トラスの両端3か所ずつレーシングバーと交差して用いられている。中央部の4か所はレーシングバー同士の交差となっている。 

    山線鉄橋も複数の角度からの写真を見ると、同じ構造であることがわかる。

     

    支笏湖側から見た山線鉄橋

     

    ちなみに、現存する4基の一つ旧揖斐川橋梁(東海道本線)は、以前知人が訪問したことがあり、その時の写真が次の画像だ。

     

     

    黄矢印がアイバーで、レーシングバーと交差していることがわかる。またやや見えにくいが、赤丸はレーシングバー同士が交差しており、それが4つある。

    なぜ、3本のアイバーを両端の合計4か所に設置したのかは、わからない。推測するに、すべてレーシングバーにするよりも、コストや製造期間などが短縮できるぎりぎりのバランスなのかなと。

     

    おそらく真実と思われる事実にたどりつくのに、なんだかものすごく遠回りしてしまった感じがする。青い鳥はすぐ近くにいたわけで、最初から気が付けばよかったのだが、遠回りしたからこそ知りえたこともある。まあ、だからこその探検ウォーク(今回、まったく私は歩いていないが)なのかな。

    ここまで読んでいただいた皆様、ありがとうございました。 

     

    https://soloppo.xsrv.jp/221006-chikuma/

    【参考文献】
    王子軽便鉄道ミュージアム 山線湖畔驛 webサイト

    「北海道と台湾の200ftダブルワーレントラス鉄橋」土木史研究 講演集 Vol.39 2019年 
     石川 成昭氏 日本データーサービス株式会社
     木下 宏氏 一般財団法人自然公園財団 支笏湖支部

    「北海道線第一空知川橋梁災害応急工事概況」 土木学会誌 第三巻 第一号 大村 卓一氏

  • 龍王峡駅

     
    栃木県と福島県を結ぶ野岩(やがん)鉄道の会津鬼怒川線は、1986年に全9駅で開業。龍王峡は起点の新藤原の次に位置する駅である。日光国立公園内にある景勝地「龍王峡」の最寄り駅だ。鬼怒川の流れが火山岩を浸食してできた峡谷が、龍の姿を思わせることに由来する。

     

    基本情報

    □路線  野岩鉄道 会津鬼怒川線
    □開業  1986年(昭和61年)開業
    □所在地 栃木県日光市藤原1357
    □マップ

    □訪問年月 2023年

      

     

    龍王峡駅で下車。電車は会津高原尾瀬口方面へ向かう

       

    野岩鉄道会津鬼怒川線の9つある駅のうち、起点から8つまでが栃木県内にある

      

    ホームの1/3ほどがトンネル内にある

     

    ホームは1面1線。同じホームに上り下りの電車が入線するので、単線に慣れていない観光客に注意喚起の張り紙がある

     

    会津高原尾瀬口方向にもトンネルが間近に迫る。山間部の駅ということを実感する

     

    ホームの下に沢の流れがあった

      

    ホームの中央まで戻り、階段を上がって改札に行ってみよう

      

    いきなり龍のお出迎え。手作り感があたたかい

     

    時間帯により無人になる臨時精算所。訪問日は職員の方がいて切符を受け取ってくれた

     

    列車の本数は、1~2時間に1本程度

      

    駅正面向って右手に、独立した建物のトイレがある

      

    駅前に立つ案内板

     

     

    増水を知らせるサイレンか

     

    再び、ホームに戻る。こちら側にも龍がいる

     

    またくるね

     

     

  • 平磯灯標はなぜ黄色いのか 離岸堤の黄色灯標から辿り着いたジジツ

    平磯灯標はなぜ黄色いのか 離岸堤の黄色灯標から辿り着いたジジツ

     

     

    能登半島の地震が起きる半年ほど前、富山湾を臨む海岸線は夏の雲が鮮やかだった。祭りが近いのか、赤い提灯が夏空に映える。

     

     

     

    堤防の階段を上ると、右手奥に能登半島が霞んで見えた。

     

     

     

    今回訪問した場所は、下図の赤丸の場所。ほんの少し富山湾側にせり出した生地鼻(いくじはな)というところだ。

     

    国土地理院より

     

     

    ここには、少し変わった形の突堤のようなものがある。ちょっと見は船着き場のように見えるが、もちろんそうじゃない。

     

      

     

    同じ場所を航空写真で見たものが、下の地図だ(上の画像は、赤矢印の起点方向から撮影している)。海岸線に平行に配置された堤防のほかに、手前に4つ、弧を描く物体が映っている。 この物体が、いま目の前にあるモノのようだ。

     

    国土地理院より

     

     

    海岸線に近い部分には円筒形の杭が打たれている。

     

     

     

    その先は、特殊な形をしたコンクリートブロックが並ぶ。

     

     

     

    このあたりは浅瀬なのだろうか、海面の色が明るい。

    弧を描く突堤は新型の離岸堤で、「沖合から押し寄せる波の力を弱め、海岸の侵食を防止する(Wikipediaより)」役割がある。「高波から地域を守る新型離岸堤」として五洋建設が建造したものだ。

    地形や海流などさまざまな要素を考慮して、こういった形で設置されたのだろう。緻密な計算のもとに構築された建造物は、その存在だけで美しいなと思う。

     

      

     

     

    離岸堤の先端には、黄色い灯標が設置されている。

     

     

    下の画像は別の場所にあったものだが、おそらくこれと同類のものだろう。

     

     

    注目したいのは、この灯標の黄色だ。(ちなみに、この構造物を「灯標」と呼ぶのか、正確にはわからなかったが、ここでは灯標と呼ぶことで話を進める)

    船舶が安全に港に出入りできるように、堤防の突端には赤や白の防波堤灯台が設置されていることが多い。

     

    https://soloppo.xsrv.jp/201008bouhatei/

     

    なので、黄色というのは、わりと珍しい。

    黄という色からある程度の予測ができるが、なんらかの注意を要する特殊標識のようだ。確かに、離岸堤は船が入出港する場所ではなく、浅瀬にもみえるので、注意喚起のための標識ということなのだろう。

    そこで、ふと思った。黄色い灯台ってあるんだろうか・・と。

    海に浮かんでいる灯浮標(灯火ブイ)なら、緑色や黄色のものを見たことがある。でも黄色い灯台はないだろうなと思って検索したら、あったのだ。神戸沖に。

    「平磯灯標」、正確には灯台ではないのだが、これは黄色い灯台といっても遜色ない堂々としたたたずまいである。

     

    Hira Iso Lighthouse (1893)

     

    海岸線からもはっきり確認できるくらい近くにある。

     

     

     

    平磯灯標について、さらに調べてみると大変興味深い記事が見つかった。

    2016年に日本経済新聞社に掲載されていた「英文豪も眺めた海の灯 平磯灯標(時の回廊)」という記事だ。これを拝読すると、建設から100年以上建ち現存する日本最古の水中コンクリートとしての歴史を持つことがわかった。

    特に海中に土台を設置するための困難さは、短い文章からも容易に想像でき、水中の岩場に建設されたアルメン灯台(フランス)を思い出させるものだった。

     

    https://soloppo.xsrv.jp/230129-lighthouseisland/#google_vignette

     

    そんな重厚な内容の中で、一番気になったのは次の一文だった。

     

    かつて黒一色だった塗装は、国際ルールに従い黄と黒の鮮やかなツートンになった

    文 大阪・文化担当 竹内義治氏 https://www.nikkei.com/article/DGXLASHC24H4O_V20C16A6AA2P00/

     

    人は見たいものしか見えてないとはよくいったもので、私には黄色一色の灯台に見えていたが、よくよく見返してみると確かに上部が黄色、下部が黒色の2色構成になっている。

    単に黄色は注意といった意味だけではなく、この2色構成には大きな意味があったのだ。

    この上が黄色で下が黒の構成は南方位標識と呼ばれ、この灯標の南方向は航行可能な場所で北方向には岩礁や浅瀬などがある危険な領域であることを示している。

    平磯灯標のある一帯は、古くから座礁などの航海の難所で、こうした方位標識で航行の安全を図っていたのだ。

    (方位標識については海上保安庁の説明ページをご覧ください)

     

    船舶の運航にかかわる方ならよくご存じのことかもしれないが、方位標識の色の塗り分けについてはまったく知らなかった。まだまだまだまだ、知らないことがたくさんなのである。

  • 「記憶の赤レンガ」篇 時代を語る煉瓦たち 2024年大分むぎ焼酎「二階堂」CM

     

    トップ画像license:Asturio Cantabrio, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

     

    2024年10月、今年も大分むぎ焼酎二階堂のCMが公開された。
    「記憶の赤レンガ」篇のテーマは、古いレンガ。レトロなインフラ土木に萌える私の大好物である。

    明治から大正、昭和初期にかけて、レンガによる構造物が多く造られた。建物はもちろん、橋の橋脚であったり、造り酒屋の煙突だったり、携わる人々の熱い想いが込められたレンガからは、今も時代の拍動が聞こえてくるようだ。

     

      

    30秒バージョンでは、12の古(いにしえ)のレンガたちが登場する。順番に紹介していこう。


     

    レンガ塀と民家 0:00~0:05頃

     

    冒頭から2つのレンガ塀が登場する。特に最初のシーンは、レンガ塀とレンガ造りの蔵が存在感を示す。撮影されたのは、盛夏だろうか。残念ながら、場所は特定できなかった。

    【追記:2024/10/31】
    二階堂の公式サイトに撮影場所が公開されていた。冒頭と2番目の民家は、以下の場所。

    冒頭の場所をストリートビューでみてみる。行ったこともないのに既視感のある、不思議な場所だ。もっとも、どこか懐かしく、そしてほのかに切ないというのは、二階堂のCMの共通項でもある。

     

     

    こちらは2番目、古賀市の民家のレンガ塀。

     

     

    牛津赤れんが館 0:06頃

     

    佐賀県小城市、牛津の宿場町にある商家、明治時代に造られた旧田中丸商店のレンガ造りの倉庫だ。切妻屋根のゆるやかなカーブが、いい感じ。

     

     

    嘉麻川橋梁のレンガ橋脚 0:08頃

     

    福岡県直方市と小竹町の境を流れる遠賀川。嘉麻川橋梁は、その遠賀川に架かる平成筑豊鉄道伊田線の鉄橋だ。明治時代に造られた歴史ある橋梁で、遠賀川の昔の呼び名が嘉麻川だったことから、この橋名となったとも言われるが、はっきりとしない。どっしりとしたレンガ造りの橋脚は、石炭搬出で多くの列車が行き来した時代の証人だ。

    ちなみに、CMでは下流側にある下り線(明治26年造)しか映っていないが、すぐ横の上流側には上り線があり複線化された明治42年に造られている。

     

     

    門司港レトロの赤レンガ塀 0:11頃

    福岡県北九州市の門司港レトロ地区。明治初期に開港した門司港には多くのレンガ施設が残されている。その中で、あえてこのアートのようなレンガ塀を選んだのは、さすが二階堂のCMだなと思う。

    最新のストリートビューは、ツタの元気がよすぎて壁がよく見えないので、2016年10月のものを表示させている。

     

     

    鶴味噌並倉 0:13頃

      

    福岡県柳川市内を縦横無尽に走る掘割と呼ばれる水路。その水路をめぐる舟から、風情ある3棟の蔵を眺めることができる。大正初期に造られた並倉は、鶴味噌醸造の現役の味噌蔵だ。

     

     

    門司赤レンガの裏壁 0:16頃

     

    福岡県北九州市の門司赤レンガプレイス。ストリートビューでは、CMと同じ画角で見ることはできないが、下のストリートビューの奥方向にその場所がある。華やかな表通りのレンガの顔とはまた違う、時代の荒波を乗り越えてきた気概のようなものが漂う。

     

      

    岩尾磁器工業 上有田工場 0:18頃

     

    堅牢な赤レンガの塀と合体した木造の建造物は、佐賀県有田町にある岩尾磁器工業の上有田工場だ。こうした組み合わせは、ありそうであまり見たことがない。

     

     

    旧杵島炭鉱変電所の屋内? 0:21頃

     

    どこかの建物の屋内なので、場所の特定が難しい。見た感じ、一般住宅ではなさそうだ。錆びた鉄骨の枠組みの上にあるのは、碍子(がいし)のようにもみえる。となると、どこかの古い変電所跡だろうか。

    そう思って、福岡県と佐賀県で探してみた。実際に訪問した方の写真などをみると、もしかすると佐賀県大町町の大町煉瓦館かもしれない。昭和2年から稼働した杵島炭鉱変電所の遺構を、大町煉瓦館として活用している。

     

     

    幣(にぎ)の松原 製塩所煙突 0:22頃

     

    福岡県糸島市の海岸沿いに、ポツンと立つレンガ煙突。かつてこの地にあった製塩所の煙突だ。

     

     

    備前浜宿 酒蔵通り 0:25頃

     

    佐賀県鹿島市の備前浜宿には、今も歴史ある街並みが残されている。酒造通りには、酒蔵や醤油蔵などが並び、その建物の奥にレンガ造りの煙突がみえる。

     

     

    旧百三十銀行行橋支店 0:27頃

    東京駅などを設計した建築家辰野金吾の監督により、大正3年に建設された旧百三十銀行行橋支店(福岡県行橋市)。「行橋赤レンガ館」として親しまれている。

     

     

    ☆関連記事はコチラ

    https://soloppo.xsrv.jp/231102-nikaidoucm2023-sp/

    https://soloppo.xsrv.jp/230205-sijin/

    https://soloppo.xsrv.jp/221025-nikaidoucm2022/

    https://soloppo.xsrv.jp/210902-nikaidou/

  • 【湖の灯台】じりじり延びるミシガン湖の桟橋と、移動する灯台と霧笛小屋【なぜその位置に編】

    トップ画像 リンク先 License by Bill Vriesema

    ミシガン湖のグランド川河口桟橋に建てられた灯台の話。前回【いまこうなってる編】からの続きです。

    https://soloppo.xsrv.jp/240506-grandhaven-1/

     

    建てる場所を間違えたって・・

    1830年代後半、グランド川の河口近くのグランドヘイヴン(Grand Haven)は、積み出し港としての重要性が高まり、灯台や桟橋建設の声が高まっていた。

    これを受け、本格的な灯台が建設されたのは1839年(次地図の①)。高さ約9mの石造りの灯台だった。ちなみに日本では天保10年、黒船来航14年前の時期である。

      

     

    せっかく建てた灯台だったが、数年たたないうちに、建てる場所を間違えたかもしれない・・という事態になってきた。ビーチに建てた灯台は、荒れるミシガン湖からの浸食が続き、あわてて防潮堤を建設することになる。
    (建てる前にわからなかったんだろうか)

    しかし、努力の甲斐なく1852年12月6日に嵐が防潮堤を破壊。12月17日には灯台と管理用の建物も倒壊するに至る。わずか13年で灯台はなくなってしまったのだ。

    3年後の1855年、新しい灯台が再び建てられた。最初の灯台があった場所から45mほど離れた背後の崖の上だ(地図②)。塔の高さは約7.3mと高くはないが、崖の上にあるため湖面からは21mほどあり灯台としての高さは十分だったようだ。

    この灯台(以降、崖の上の灯台)には、当時の4000ドルをかけて4等のフレネルレンズが設置された。【いまこうなってる編】で紹介した、トリシティ歴史博物館に展示されているあのレンズである。

    崖の上の灯台は、1905年まで50年間、グランドヘイヴンの守り神として役目を果たし続けることになる。

     

    崖の上の灯台

     

    どんどん延びる南桟橋

    崖の上の灯台が建設されたのち、ミシガン湖の激しい波風による浸食や砂の移動、周辺の沈泥蓄積を抑制するために、護岸の整備と桟橋の建設が始まった。

    同時期にデトロイト・ミルウォーキー鉄道の、デトロイトからグランドヘイヴンまでの路線が開業し、ミシガン湖を横断してミルウォーキーにつなぐフェリーを運航し始めたことも、桟橋建設の後押しになったようだ。

     

     

    本格的に南桟橋の工事が始まったのが、1860年代になってから。まず細かい情報は後にして、建設年と桟橋の長さをみてほしい(次図)。わかりやすくするために南桟橋の長さをフィートで説明するが、最初に287フィート(約87m)だった桟橋は、25年かけて少しずつ長さを延ばし、1893年に現在の1515フィート(約461m)になっている。地道にこつこつやっていったのだ。

     

    赤丸で囲んだ数値は延伸した桟橋の全長(単位:フィート)

     

    標識灯と霧笛小屋とキャットウォークと

    南桟橋に設置された標識灯と霧笛小屋の遷移(1870年~1884年)

     

    延伸した南桟橋の先端に、最初に標識灯(Beacon Light)が設置されたのは1871年。桟橋にあわせて木製のキャットウォークも設置された。

    そして4年後の1875年には、標識灯のすぐ後ろに霧笛小屋が設置された。

    その後、桟橋はさらに延び、標識灯も霧笛小屋も先端に場所を移動し、キャットウォークも延伸した。

    次の古い写真は、正確な撮影年は不明だが、1890年頃の標識灯と霧笛小屋を写したものだ。キャットウォークも標識灯をのせたやぐらも、木製だったことがわかる。

     

      

    崖の上の灯台から桟橋の灯台へバトンタッチ

     

    南桟橋の全長が現在と同じ1515フィートになったのは1893年頃のこと。これまでと同様に標識灯と霧笛小屋も桟橋先端に移動している。

    1905年頃になると、南桟橋にも大きな変化が起こる。

    先端にあった標識灯の代わりに、約15mの高さの灯台が設置された。現在の南桟橋にある赤い灯台である。ただし色は白で、場所も今とは違い南桟橋の先端にあった。

    この灯台のレンズには、崖の上の灯台から取り外されたフレネルレンズが使われている。崖の上の灯台は役目を終え、1910年には取り壊されたと聞く。

    崖の上から桟橋の先端に安全航行の光がバトンタッチされたわけだが、このときに起こった面白いエピソードがある(実際には面白がってる場合ではないのだが)。

    周辺を航行する船の船長たちが、このバトンタッチのことを知らず、入港時に大混乱になったというのだ。航路に慣れていた船長たちなので事なきを得たが、そうでなければ座礁していたかもしれないと資料にあった。資料には船長以外はみな知っていた・・とあるのだが、そんなことあるだろうか?ほんとに?

     

    灯台を後方に下げた理由とは

    せっかく桟橋の先端に設置した灯台だが、2年後の1907年に約180m後方に設置場所が移動。現在灯台が建つ場所と同じになった。

    当時の写真を見ると、灯台はまだ白く、キャットウォークだけでなく桟橋の床も木造であることがわかる。

     

    1907年に撮影

    こちらはキャットウォークから撮影されたもので、臨場感がある。桟橋から、どうだろうか2mぐらいの高さがあるように見えるが、それでも荒れ狂うミシガン湖の天候によっては、キャットウォークを渡るのも命がけということもあったろう。

     

    1910年代に撮影

      

    一方、霧笛小屋のほうも変化があった。小屋西側の屋根を改修し、デッキスペースを追加してその上に灯台(の上部)を設置したのである。

     

    1913年撮影

     

    ある資料によると、この霧笛小屋の灯台のレンズも崖の上の灯台から持ってきたもの・・という記述もあったのだが、相当数の資料を読み込んでみたが情報が混とんとしているところも多く、レンズについて正確なところはわからない。

    なぜこのような大がかりなことを行ったかという点についてだが、「2つの灯りが船舶を港に直接誘導するための距離灯として機能できるようにするため」ということのようだ。

    大変な労力をかけての改修だが、これも灯台を建てる前にわかればよかったのにね・・という気がする。もちろん、やってみたあとに気が付くってことはよくあることだけど。

    1921~1922年にはキャットウォークが木製から鋳鉄製に代わり、霧笛小屋の前には船首に似せたコンクリートの構造物が設置された。

    下の写真はモノクロなのではっきりとわからないが、灯台の色は白から赤くなり(1917~1918年に赤く塗装されたと記録がある)、キャットウォークも取り換えられている。

     

    1923年撮影

     

    上の写真が撮影されたのが、ちょうど今から100年前。霧笛小屋も灯台も、多少の違いはあれど変わらぬ姿でそこにある。

    桟橋の途中と先端にある2つの灯台は、先人の努力と試行錯誤の中からたどりついた答えなのだった。

     

    最後に、内部映像も含む約90秒の動画をぜひご覧ください。

     

     

  • 【湖の灯台】ミシガン湖の桟橋、キャットウォークでつながる2つの灯台【いまこうなってる編】

    トップ画像 リンク先 License by gbozik photography

     

    3年ほど前に、オンタリオ湖のオスウェゴ灯台を紹介したことがある。オンタリオ湖は、アメリカとカナダの国境にある五大湖の一つだ。 

    https://soloppo.xsrv.jp/211106-oswego/

     

    湖といえど半端なく荒ぶるオンタリオ湖と、それゆえに灯台が必要なのだということを知った。
    今回紹介するのは、同じ五大湖の一つ、オンタリオ湖よりも西にあるミシガン湖の灯台だ。冒頭の画像である。

      

     

    灯台のある場所をズームしてみると、ミシガン湖に注ぐグランド川の両岸から2本の突堤が伸びている。本記事では、北側の突堤を北桟橋、南側を南桟橋と呼ぶことにする。

    南桟橋には2つの灯台が並んでいる。

    桟橋の端にあるのがアウターライトで、その右側にあるのがインナーライトだ。
    (アウターライトは、エントランスライトとも呼ばれている)
     

     

    最初にこの灯台の写真を見たとき、なぜ1つの桟橋に2つの灯台(しかも一つは家の形をしている)があるのか?桟橋にある黒い柵のようなものはなんなのか?いろいろ気になって調べてみることにした。

     

    霧笛小屋と灯台が合体

    Grand Haven South Pier Outer Lighthouse (1905)
    Flickr 2020年4月 by Selector Jonathon Photography

     

    まずは現在のアウターライトを見ていこう。

    南桟橋は約461mで、アウターライトは桟橋の先端にある。2020年4月に撮影された上の画像は、岸側から見たもの。家のような建物は霧笛小屋で、霧信号所(fog horn station)だと思われる。

    雪や霧の深い悪天候時に音を出して船に位置を知らせる音波標識(施設)。灯台に併設される場合が多く、音の鳴り方(周期)でどの灯台(霧信号所)かがわかりました。

    犬吠埼灯台大百科(https://inaboye.jp/wordpress_6/

     

    逆側から見たのがこちらの画像。霧笛小屋に灯台が組み込まれた一体型となっている。みんな釣りをしたりでとても楽しそうだ。

     

    Grand Haven South Pier Outer Lighthouse (1905)
    Flickr 2016年6月 by Selector Jonathon Photography

     

    ちなみに、真冬ともなればこんな様相になる。深い霧もでて、湖や建物は凍り付くのだからまったく油断できない。

     

    SPIKE explores the outer light (02 06 2015)
    Flickr 2015年2月 by Christopher Kierkus

     

    赤い光を放つ鋳鉄製の灯台

    Grand Haven South Pier Inner Lighthouse (1907)
    Flickr 2022年 by Selector Jonathon Photography

     

    続いて内側にあるインナーライトだ。約15m(52フィート)の鋳鉄製の灯台で、桟橋の先端より約182m(600フィート)後方に設置されている。

    灯台が赤く塗装されたのは1918年。(絵葉書で見る限りそれ以前は白だったようだ)
    灯台が放つ赤色光に合わせてとのことらしい。

    現在のレンズはVLB Marine LED Beaconで、いまも3秒赤く光り1秒消えるを繰り返す。

    ちなみに、以前は4等のフレネルレンズが設置されていたが、いまは取り外されトリシティ歴史博物館に寄贈、展示されている。
    現地にいかなくてもこうしてみることができるんだから、ありがたい話である。なんて美しいんだろ💛。

     

    黒い柵の正体はキャットウォーク!?

    Grand Haven, MI
    Flickr 2021年6月 by Dan Gaken

     

    黒い柵に見えるのはキャットウォークで、以前は歩けるように板が張られていた。上のほうの画像でもご覧いただいたように、このあたりの気象は激しい。暴風や高波時であっても、霧笛小屋や灯台に行き来できるように、高さのあるキャットウォークが設置されたのだ。

    次の画像には、キャットウォークと灯台の接点が映っている。確かに、キャットウォークから塔の途中にあるドアを開けて、中に入ることができそうだ。

     

    Grand Haven South Pier and Pierhead Inner Light 22
    Flickr 2012年5月 by Dawn Coen

     

    しかし、1969年に灯台の照明が自動化されたことにより、キャットウォークの使用頻度が激減。その後、老朽化が著しいため、1987年に取り壊されることになっていた。

    ところが、キャットウォークを救え!という運動が巻き起こり、歩く部分の木の板を撤去し、支柱を補強、桟橋全体に照明を設置するための資金調達が行われ、現在のような姿に落ち着いたのである。

    どうだろう。有明海にある長部田海床路 (ながべたかいしょうろ、熊本県宇土市)をゴージャスなしたような雰囲気、ちょっと派手な気もするがアメリカらしくていい感じではないだろうか。

     

    Grand Haven Lighthouse
    Flickr 2015年11月 by ChristineDarnell

     

    さて、実は本当におもしろいのはここからだ。

    黎明期のインフラ事業あるあるなのだが、失敗とたゆまぬ努力の積み重ねがここにある。グランドヘイヴンの灯台も、作ったり壊したり移動したりを150年近く続けて、この美しい光景の“いま”があるのだ。

    とはいえ、長くなってしまったので続きは後編【なぜその位置に編】で!

     

    https://soloppo.xsrv.jp/240507-grandhaven-2/